【答え】 「努力(修行的な行為)」しても、【真理】に達することとは、無関係です。むしろ、【真理】から、遠ざかるだけと、なるでしょう。

【解説】 (残念ながら)、「努力(修行的な行為)」したら、という、考え方自体、あなたは、外れています。

 例えば、「真面目」にしていたら、「災難」に遭わない、と言えますか? 「真面目」にしていることと、「災難」に遭うことは、無関係です。それと、同じ、理屈です。

 「努力」しようと、しよまいと、【真理】に至るか、どうかは、関係ないのです。
 お断りしておきますが、決して、「努力」を、悪く言っているのでは、ありません。「努力」は、「努力」で、結構な行為です。アスリートの、トレーニングと、似ています。

 【真理】に至った人は、「努力(修行)」のようなことを、している、としても、もはや、それは、「努力(修行)」ではないのです。当たり前の、行為で、そこには、もはや、努力も、克己心も、ありません。喜んで、している、のです。

 例えば、「修行」という、段階には、「努力」や、「無理」や、「挑戦」が、付いてきています。これだけ、「努力」したから、目標(【真理】のこと)に、これだけ、近づけた、はずだ‥‥、などと、思いがちです。

 【真理】に、近いも、遠いも、ないのです。あるのは、【真理】に至ったのか、【真理】に至ってないのか、の、それだけです。その二つだけなのです。
 【真理】に近い、などと、考える、段階が、実は、いちばん、たちが悪い、とも、言えます。
 「努力」して、【真理】に達せられるなら、「努力」した人は、全員、【神様】でしょう。
 お釈迦様は、6年間の、「修行(苦行)」を、止めました。そして、【悟り】に、達せられたのです。その後の、お釈迦様の行為は、もはや、「修行」では、ありません。お釈迦様にとっては、当たり前の、行為だったのです。それが、弟子たちにとっては、「修行」と、映ったのです。
 同じ行為でも、「修行」と考えるのか、当たり前の行為として、喜んでやるのか、とでは、雲泥の差です。

 結論として、どんな、行為を、するに、つけても、
「これは、「修行」だ」などと、思っているうちは、【真理】には、至らないこと、でしょう。
 あなたが、やる行為は、【喜んで】やらねば、意味がないのです。そして、「これだけ、やった、のだから」などと、恩着せがましく、思わないことです。

 【真理】は、突然、気づくもの、です。

 何年、「修行」したから、などとは、次元の違う、ことなのです。