『新樹の通信』から学ぶ、【真理】‥‥「55」

◎ 帰幽後の、一仏教信者 ④

  K老人の、述懐

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☆☆【私(※一風)から】

 さて、頑固者だった、Kさんも、
 さすがに、この状況は、おかしい?
 と、疑問を抱いたとき、

 ここぞ、転機である、と、
 指導役の神様は、姿形を、
 坊さん姿から、白衣の姿に、
 早変わり、させました。

 ようやく、Kさんにも、
 聴く耳が、出来た、のです。

 今回の、Kさんの述懐(※反省)は、
 大いに、私たちも、参考と、すべき、
 だろうと、思います。

 読者の皆様に、おかれましては、
 ご熟読、願います。

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『新樹の通信』より

新樹霊:

 とにかく、Kさんが、変だと、
 気がつくと、

 その瞬間に、
 これまでの、恐ろしい光景は、
 拭うがごとく、消え、

 そして、法衣を着た、坊さんの姿が、
 カラリと、白装束の神さんの姿に、
 急変したと、言います。

 Kさんは、つくづく、こう述懐しました。

 先入観というものは、
 実に、恐ろしいものだ。

 娑婆にいる間は、それほどでも、ないが、
 こちらの世界は、

 ◎ 全て、観念の世界

 であるから、

 ◎ 間違った考えを、抱いておれば、
   全部が、その通り、間違ってきてしまう

 今から、考えると、
 仏教というものは、言わば、
 一種の、五色眼鏡で、
 全部、ウソという、訳でもないが、
 しかし、それを通して見る時に、
 
 ◎ 全てのものは、ことごとく、
   一種の歪みを、帯びていて、
   赤裸々の現実とは、大分の、
   相違が、ある

 人間が、無知蒙昧である、時代には、
 あんな方便教も、必要かもしれぬが、
 今日では、たしかに、
 時代遅れである。

 現に、自分なども、そのために、
 どんなに進歩が、遅れたか、しれぬ。

 そこへいくと、
 神の道は、現金掛け値なし。

 蓮の台も、なければ、
 極楽浄土も、なく、
 
 その人の、天分次第、
 また、心掛け次第で、

 ◎ それぞれ、適当の境地を、与えられ

 一歩一歩、向上進歩の、道を辿り、
 自分に与えられた、力量の発揮に、
 全力を挙げる、のだから、
 実に、有り難い。

 それでこそ、
 初めて、生き甲斐が、ある。

 自分などは、まだ、決して、
 理想的の境地には、達しないが、
 しかし、
 
 ◎ 立派な、指導者が付いて、
   何くれと、導いてくださる

 ので、少しは、こちらの世界の、実情にも、
 通じてきた。

 ことに嬉しいのは、

 ◎ 自分に、守護霊が、付いていること

 で、今では、その方とも、
 しょっちゅう、往来している。

 それ(※守護霊)は、

 ◎ 帰幽後、五百年位経った、武士

 で、なかなかの、しっかり者である。

浅野和三郎:

 Kさんの守護霊は、やはり、
 戦国時代の、武士だったのか。

 道理で、しっかりしている、はずだ。

 それはそうと、
 Kさんに付いていた、坊さんが、
 急に、神さんの姿に、早変わり、
 したと、言うが、
 あれは、どういう、訳かしら?

新樹霊:

 僕も、変だと、思いましたから、
 いろいろ、訊いてみましたが、

 ◎ 死んだ人には、宗教宗派のいかんを問わず、
   必ず、大国主神様から、指導者が、付く

 ものだ、そうです。

 しかし、

 ◎ 仏教信者だの、キリスト教信者だのには、
   先入的観念が、こびりついていて、
   真実のことを教えても、
   なかなか、承知しないので、
   本人の眼の覚めるまで、
   神さんが、一時、坊さんの姿だの、
   天使の姿だのに、化けて、
   指導している

 のだ、そうです。

 随分、気の長い話しで、僕たちには、
 まだ、とてもそんな、雅量は、
 ありませんね‥‥。

浅野和三郎:

 仏教信者の方は、だいたいそれで、判ったが、
 キリスト教信者は、どんな具合かしら?

新樹霊:

 実は、それについて、
 僕も、Kさんも、大いに不審を起こして、
 神さんにお願いして、
 キリスト教の堅い信者を、一人、
 呼んでもらい、ました。

 その話しは、いずれ、申しあげることに、
 しましょう。

地の文:

 その日の、会談は、ひとまず、
 こんなことで、終わったの、でした。

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☆☆【私(※一風)から】

 たいへん重要なことが、述べられた、
 回でした。

 ・ 守護霊のこと、
 
 ・ 指導役の神様のこと、

 ・ その、指導の方法、

 が、語られていました。

 さて、
 次は、キリスト教信者は?
 が、予告されましたが、
 どうなるので、しょうか?

 再度、申しあげますが、
 私(※一風)は、宗教を否定するものでは、
 全く、ありません。

 むしろ、宗教に、高い敬意を表している、
 者です。

 ただ、その宗教の、真髄に迫ることなく、
 表面上の、儀礼や形式だけでもって、
 救いを求めるのは、
 道を、誤りやすいのではないか?
 と、申し上げたいのです。

 真剣に、求めなければ、
 簡単には、与えられない、

 と言える、のでは、ないでしょうか?

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読者の皆様へ:今回も、お読みいただき、ありがとうございました。