【【神様】からの、お告げ「45」】

◎ 「修行」の後に、【悟り】がある
  のではなく

  【悟り】の後に、「修行」がなされる
  のだ

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【【神様】ご自身からの、解説】

 いくら、「修行」を積もうとも、
 【悟り】には、関係が、ない。

 むしろ、「修行」をすれば、するほど、
 【悟り】からは、遠ざかる、
 であろう。

 「修行」すれば、するほど、
 道に迷い込み、混迷が、待っている、
 だけと、なろう。

 【悟り】を、得るために、「修行」する、
 とは、
 根本的に、間違った、考え方である。

 正しくは、こうである。

 【悟り】を、得たので、
 「修行」を、する。

 これである。

 そして、

 【悟り】を、得ているため、
 「修行」は、当然のこととなり、
 もはや、それは、「苦」ではない。
 むしろ、それを、喜んで、進んで、
 やっているのだ。

 苦節に耐え、嫌がる我が身に鞭打ち、

 などといった、姿勢とは、
 真逆、なのである。

 【悟り】は、「修行」を、止めたとたん、
 ハタと気づく、もの。

 そして、悟れば、

 ◎ 喜んで、「修行」できる

 ように、なるのだ。

 【一風】が、そうであった。
 【一風】に、そのことを、聴くが、よい。

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【追伸】

 【悟り】を、追い求めれば、求めるほど、
 手には、入らない。

 それよりも、
 目の前の、数々の「試練」から、逃げずに、
 浴びることだ。

 そうなれば、
 そののち、勝手に、向こうから、
 【悟り】は、やってくる。

 【一風】も、そうであった。

 そして、

 横綱は、自ら喜んで、猛稽古に、精進する。

 チャンピオンは、自ら求めて、荒トレーニングに、
 向かう。

 のである。

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【再追伸】

 座禅により、【悟り】に、至る
 のではない。

 【悟り】に至ればこそ、
 座禅(※【精神統一】)するのだ。

 なぜなら、
 捜していた青い鳥は、
 「己」の中に、いた
 のだから。

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私(※一風):【神様】、ありがとうございました。

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読者の皆様へ:今回も、お読みいただき、ありがとうございました。