ことわざに学ぶ「人生」:その231

◎ 修行

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☆☆【私(※一風)から】

 今回は、「修行」について、
 考えてみたいと、思います。

 「修行」とは、【悟り】を得たい、
 という、目的で、行うもの、
 だと、言えます。

 では、【悟り】を得るには、
 「修行」が、必要なので、しょうか?

 「修行」しなければ、
 【悟り】は、得られない、のでしょうか?

 あなたは、どう、お考えでしょうか?

 これより、私(※一風)の、考えを、
 申しあげます。

 以下を、読まれる前に、まず、
 あなたご自身のお考えを、持っておかれる、
 ことを、願います。

 よろしくお願いします。

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 では、私(※一風)の、考えを、
 申しあげます。

 「修行」することと、
 【悟り】を得ることは、
 無関係だと、考えます。

 「修行」しなけれは、悟れない、
 ならば、
 「修行」できない人は、悟れない、
 ことに、なります。

 これは、ある種、傲慢な考えだと、
 思います。

 もし、その「修行」が、
 座禅であるなら、
 身体的に、座禅できない人は、
 どうなるので、しょうか?

 「修行」することを、特別なこととする、
 思い上がった、「心」が、
 どこか、においます。

 私たちが、「今」こうして、こうあること、
 こそが、
 何よりの、証明だと、考えます。

 「修行」の有る無しに関わらず、
 私たちは、「今」こうして、ここにある、
 のです。

 いかに、私たちの【魂】が、どういった旅路を、
 辿ってきたのがは、千差万別ですが、
 それにも、関わらず、
 「今」こうやって、ここに、あるわけ、
 です。

 「修行」した、過去世も、あったかも、
 しれません。
 しかし、「修行」と無縁だった、過去世こそ、
 大部分だったことと、思います。

 「修行」に、【悟り】を求める「心」、
 自体が、
 誤っている、と、申しあげます。

 その考え自体が、誤っている、
 のです。

 「修行」すれば、悟れる、
 のでは、ありません。

 「修行」とは無関係に、
 私たちは、既に悟っている、
 と、申しあげます。

 実は、私たちは、
 【悟り】の、固まり、です。

 私たちとは、【悟り】でできている、
 と、言えるのです。

 私たちは、【悟り】のみで、
 できている、といっても、よいでしょう。

 それを、「今」一瞬、忘れさせられている、
 だけ、なのです。

 これ以上のことは、
 文章では、表現に限界があります。

 ぜひ、【人生相談・ダルマ堂】まで、
 お越しください。
 対面にて、ご説明申しあげます。

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読者の皆様へ:今回も、お読みいただき、ありがとうございました。